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関ケ原魅力アップ事務局

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関ケ原魅力アップ事業終了のお知らせ

関ケ原魅力アップ事務局のブログをご覧いただき、ありがとうございます。

さて、昨年秋より活動してまいりました関ケ原魅力アップ事業ですが、平成25年3月31日をもちまして、当初の予定通り事業を終了することとなりました。
短い間ではございましたが、史跡調査、甲冑製作、陣中食、特産品PR、馬防柵設置イベント、関ケ原合戦ツアー、細川忠興陣跡碑除幕式、関ケ原合戦交流広場など、関ケ原の魅力アップにつながるさまざまな事業に関わらせていただき、たいへん充実した時間を過ごすことができました。
これもひとえに、全国の戦国ファン・関ケ原ファンの皆様、関ケ原町の皆様、その他関ケ原に関わる全ての皆様のおかげさまと、事務局一同、深く感謝しております。

関ケ原魅力アップ事業は終了となりますが、関ケ原町では4月から観光シーズンが始まり、さまざまなイベントや事業が展開されることと思います。今後とも関ケ原をよろしくお願いいたします。
たいへんお世話になりまして、ありがとうございました。

                                                   関ケ原魅力アップ事務局一同

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宇喜多秀家と小西行長

 この雑記帖では、宇喜多秀家(うきたひでいえ)と小西行長(こにしゆきなが)のことはぜひ取り上げたかったのですが、力不足で間に合いませんでした。せめて、少しばかり調べたり、考えたりしたことの一端を記しておこうと思います。

                                  

 まず、宇喜多秀家ですが、彼の印象を一言でいうと、貴公子。幼くして父直家(なおいえ)を失ったこともあり、秀吉が引き取って大切に育てました。関ケ原合戦のときには御年28歳。まさに花の青年武将でした。

 関ケ原合戦前にはお家騒動も経験し、その際、家康の介入によって、主だった重臣が秀家から離反(りはん)するという事態になりました。関ケ原合戦では西軍の副大将として、西軍最大の1万7千の軍勢を率いて参戦しますが、軍隊としてややまとまりに欠いていたきらいがあったことは否(いな)めません。
 それでも、勇猛果敢(ゆうもうかかん)に戦う秀家。小早川秀秋(こばやかわひであき)が裏切ったと知った時の純粋な怒りの表現は、ある意味で微笑ましいほどです。

 私は、秀家というひとは、ほんとうに素直で、しかも懐(ふところ)の深いひとだったのだろうと思います。若いころは若さのままに、懐の深さよりは純粋さや正義感の方が表に出ていたでしょうが、八丈島に流されてからは特に人間として円熟し、謙虚で温かな人柄が醸(かも)し出されてきたように思います。

 関ケ原合戦に敗れて敗走するにあたっても、心ある家臣が前もって逃走経路を確保しておいたことはまず間違いないでしょう。ただやみくもに山中に逃げ込み、落武者狩りにあった相手が気持ちを切り替えて助けることにした、などという話は実際にはあり得ません。秀家一行を命がけで匿(かくま)った矢野家(現揖斐川町白樫=しらかしにご子孫がお住まいです)にも、初めから秀家を助けるつもりで探していたと伝承されているそうです。
 秀家の命を守るため、このように近習(きんじゅう)の家臣や縁(ゆかり)ある郷士(ごうし)、また正室お豪の実家である前田家、更には数年にわたって秀家を匿った島津家など、身分の上下を問わず、多くのひとびとが力を尽くしました。その努力の甲斐あって、徳川家もいわば根気負けする形で、秀家は死一等を免れ、八丈島に遠島となるのです。

 私が、秀家の印象を貴公子と言ったのは、決して溌剌(はつらつ)とした若武者のイメージからだけではありません。むしろ、歳を重ねるごとに、内面に磨きがかかり、人望もいや増さるその姿に、永遠の貴公子としての資質を強く感じるのです。
 実際、八丈島でも土地のひとびとから敬愛されたことが伝えられていますし、役所で飯をご馳走(ちそう)になったとき、お握りにして家族に持ち帰ったという話も残っています。また、前田家の尽力(じんりょく)で、当家の親藩(しんぱん)として受け入れるという話があったとき、秀頼公の御代(みよ)であるならいざ知らず、徳川家の情を受けるのは豊臣家に義理が立たない、として断ったとも言われています。しかし、その判断は、関ケ原合戦の際、西軍を裏切った小早川秀秋に向けた怒りのような直情(ちょくじょう)ではなく、彼に仕(つか)える一族郎党のことも視野に入れながら、熟慮の末に導きだされた、彼の人生の総決算のようなものだったに違いありません。

 宇喜多秀家というひとはほんとうに、純度の高い酒が時を経て更に味わいを増していくような、そんな素晴らしい人生を送ったひとだったのではないでしょうか。

                                  

 続いて、小西行長について書いてみます。
 最初に書いてしまいますが、行長を理解するのはほんとうに難しいと思います。その理由のひとつは、彼がキリシタンであることから来ています。同じキリシタンでも、例えば、高山右近(たかやまうこん)のようなひとなら、ある意味で分かりやすい。右近は自分の領国を地上における神(もちろんキリスト教の)の国にしようと努めますが、秀吉の方針変更によりそれが叶わないと知ると、あっさり大名としての身分を捨てます。世俗的な栄達(えいたつ)を捨て、信仰に生きることを選ぶのです。
 また、ほとんどのキリシタン大名たちも、右近とは別の意味で分かりやすい。彼らは、かなりの程度、経済面その他の打算から信者になっていたので、それが自分の出世にマイナスになることがはっきりすれば、あっさりと信仰を捨てることができました。
 行長はその両方ともタイプが違います。ある意味で一番損な役回りです。右近は褒(ほ)められます。信仰という面からみると、他の多くのキリシタン大名たちは最初から批判の対象にもならない。行長だけが、その世俗的野心や優柔不断(ゆうじゅうふだん)な態度、保身などを批判されがちなのです。

 確かに行長には世俗的な野心があったと思います。しかし、当時は、日本におけるキリスト教布教の中心的勢力であったイエズス会自体、世俗的な力(経済力や軍事力)に強い関心を抱いていました。
庶民のひとりひとりにあたって洗礼を勧めるよりは、領主を受洗させ、それによって、その国の領民を一気にキリシタンにしてしまおうという発想が強かったですし、いろいろうまくいかなくなると、まずは日本を武力で占領して、日本全体をキリスト教国にしてしまおうというとんでもない考えを、半ば本気で抱いていた会の重鎮(じゅうちん)もいたのです。
 これでは、秀吉が警戒するのも当たり前ですし、行長が信仰と世俗的野心の間で悩もうとしても、神父さん(パードレ)もあまり助けにはなりませんね。何しろパードレ自身が、行長や彼の父隆佐(りゅうさ)の持つ政治力や経済力、特に秀吉とのパイプに期待しているのですから。
 これが例えば、かつてアッシジで誕生した聖フランシスコのように「全(まった)き清貧」を旨として活動する修道士(しゅうどうし)などから教えを受けたなら、行長も素直に悩めたでしょう(もちろんその結果として信仰の方を選んだかどうかは分かりませんが)。
 しかし、イエズス会は「軍隊」的規範を会の規律にする神の戦士の集まりです。「聖戦」はもちろん、大規模な経済活動も、布教のためには正当化されました。パードレたちの希望に沿うためには、行長自身が出世し、豊臣政権において一定以上の影響力を保持していなければならないのです。
 私などからすれば、行長はきわめて誠実に神の代理人である神父さんたちのために尽くしたと思います。遠藤周作さんなどが書いているほど弱虫とも思いませんし、世俗的な野心が彼自身の首を絞(し)めたともあまり思いません。もしそういうことがあったとしたら、それは彼の個人的な問題ではなく、むしろ当時のイエズス会の方針によるところが大きかったと思います。

 しかし、右近はどうか。右近の信仰はやはり本物ではないか。まあ、そうなんですが、何事にも秘密というものはあるもので、右近は若いころから血で血を洗う修羅場(しゅらば)を潜(くぐ)り抜けてきた武将です。しかも、決していつも被害者であったわけではなく、むしろ自ら主君を裏切って殺害したりしているのです。自らのそうした過去から目をそむけずに新しい生き方を見つけようとしたら、世俗的な倫理観を越えた信仰の世界に飛び込むしかなかったとも考えられます。
 一方、行長にはそうした血なまぐさい過去は一切なかったといってよいでしょう。幼児洗礼を受けたと思われる彼はむしろ、幼いころから、できるだけ他人(特に弱い立場のひとびと)に親切にし、自らを厳しく律するなど、信仰的にも世俗的にも、それなりにきちんとした生活を送っていたに違いありません。
朝鮮の役のころの行長は、むしろ彼の世俗的野心を、キリスト教の布教という大目標に昇華(しょうか)させつつあったように思えます。彼はもし日本が朝鮮を支配するようになったら、彼自身がこの地に残ってキリスト教の布教に尽力しようという思いがあったようなのです。
 しかし、結局、朝鮮の役は失敗に終わり、行長のさまざまな、実にさまざまな努力も報(むく)われることはありませんでした。

 関ケ原合戦のころの行長の心境を想像することはたやすくありません。三成らとの軍議においては、彼なりに発言しているようですし、西軍の中ではそれなりに重きを置かれていたとは思いますが、関ケ原合戦時の戦いぶりについては、他の西軍諸将に比べ、あまり具体的なエピソードが残されていません。小早川秀秋の寝返りによって西軍の敗北が決定的になると、行長もまた伊吹山中に逃れますが、春日(かすが)村の中山という集落で自ら声をかけて捕縛(ほばく)されたと伝えられています。

 行長の最期については、日本側の資料より、イエズス会の神父さんが書いたものが詳しいのですが、その中に、彼の衣服に縫(ぬ)いつけられていたという、彼の妻と子どもたちに宛てた遺書が紹介されていますので、『鉄の首枷』(遠藤周作・著)から引用しておきます。


「今回、不意の事件に遭遇し、苦しみのほど書面では書き尽しえない。落涙(らくるい)おくあたわず、このはかなき人生で耐えられる限りの責苦をここ数日来、忍んできた。今や煉獄(れんごく)で受くべき諸々の罪を償うべきく、苦しみぬいている。自分の今日までの罪科がこの辛い運命をもたらしたのは確かである。されど身にふりかかった不運は、とりもなおさず神の与えたもうた恩恵に由来すると考え、主に限りない感謝を捧げている。最後にとりわけ大切なことを申しのべる。今後はお前たちは心をつくし神に仕えるよう心がけてもらいたい。なぜなら、現世においては、すべては変転きわまりなく、恒常なるものは何一つとして見当たらぬからである(家入敏光訳)」。


 最後の一文は、仏教的無常観とも響きあう含蓄に富んだ言葉ですが、だからこそ、神を信じ、永遠の命にあずかる、というのがキリスト教の信仰です。
 この遺書を読むと、行長は自分の人生を振り返って、反省しきりのようにも思えますが、それは多分に彼が信仰者としての視点から自らを振り返っているからだと考えます。行長は主観的には一生悩んだひとだと思いますし、右近のようにすっきりと信仰一筋という生き方は最後までできませんでした。しかし、くどいようですが、当時のキリスト教指導者すなわちイエズス会の方針に忠実に従うなら、政権の中枢(ちゅうすう)に影響力を持つ者ほど、そう簡単に世俗的な権力を手放すことはできなかったはずなのです。

 行長が最後に遺(のこ)した言葉は、あえて言うなら、当時の社会的地位のある在家(ざいけ)信者としては最高レベルのものだと思います。本人が徹底的に自らを小さく評価しているからといって、まわりまでそれに同調する必要はありません。小西行長を理解するのは本当に難しいと思いますが、私個人としては、今後も引き続き考えていきたい大切な人物のひとりです。

                                   

さて、これをもちまして「関ケ原歴史雑記帖」も最終回となりました。最後は、走り書きながら、宇喜多秀家公および小西行長公について記させていただきました。

ここまで読んで下さった皆様に心から感謝致します。
ありがとうございました。

関ケ原古戦場の史跡探索・拾遺

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① 徳川家康最初陣地(桃配山=ももくばりやま)

家康は9月14日深夜に岡山(赤坂)の本陣を出発すると、15日の未明には、桃配山に陣を構えました。桃配山の地名は、壬申(じんしん)の乱の際、大海人皇子(おおあまのおうじ)が将兵らに山桃(やまもも)の実をふるまった故事(こじ)に由来しています。家康は、壬申の乱で勝利を収め、天下を手にした大海人皇子にあやかって、ここ桃配山に布陣したといいます。
陣跡に残る平らな岩は、家康がテーブルや椅子として使用したと伝えられているものです。
なお、家康最初陣地は国道21号線沿いにあり、駐車場は陣地の反対側にあります。国道を横断する際には、事故に遭(あ)わないよう十分気をつけてくださいね。



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② 本多忠勝(ほんだただかつ)陣跡

本多忠勝は幼少の頃より徳川家に仕えてきた勇将です。関ケ原合戦の際には、先鋒(せんぽう)である福島隊の近くに陣を敷(し)きました。
実は、本多隊の主力は嫡男(ちゃくなん)忠政(ただまさ)が率いて徳川秀忠(ひでただ)軍と行動をともにしていたため、関ケ原における本多軍は500名にも満たない兵力しかありませんでした。しかし、そんな寡兵(かへい)にも関わらず、忠勝率いる本多勢は奮迅(ふんじん)の活躍を見せました。
本多忠勝の陣跡は、烏頭坂(うとうざか)への通り道(伊勢街道)の入口付近にあたります。その理由としては、①万一、毛利勢が背後から攻めてきた場合の脱出コースの確保、②逆に、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)らが伊勢街道を回り込んで参戦した場合の備え、など、いろいろと言われているようですが、忠勝としては、最前線で戦って敵方を倒すこと、すなわち「攻撃は最大の防御である」という信念を強く抱いていたように思えます。



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③ 山内一豊(やまうちかずとよ)陣跡

 山内一豊の陣跡は、松並木が残る旧中山道のあたりと考えられています。陣跡碑はなく、案内板だけが中山道のほとりにぽつんと立っています。家康が一豊をこの付近に布陣させたのは、背後にある毛利勢への備えであると考えられます。
 一豊といえば、上杉征伐に向かう途上で開かれたいわゆる「小山評定(おやまひょうじょう)」で、真っ先に自らの居城である掛川(かけがわ)城を東軍(家康)に明け渡すことを申し出たことで知られています(この提案は、堀尾忠氏(ほりおただうじ)のアイデアを盗んだものだという説もよく聞かれるところです)。
 なお、一豊の妻千代(ちよ)は、「内助(ないじょ)の功」のエピソードが有名です。千代は嫁入りの持参金で名馬を買って一豊に与えました。それが織田信長の目に留(と)まり、それが一豊の出世につながったというのです。
 戦後、一豊はその戦功を認められ、土佐国一国を与えられました。



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④ 浅野幸長(あさのよしなが)陣跡

 浅野幸長の父は、五奉行のひとりである浅野長政(ながまさ)です。幸長は、加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らとともに、大の三成嫌いで、前田利家(まえだとしいえ)死没直後の三成襲撃にも加わっています。
 幸長の陣跡にはちゃんと明治39年碑が建っているのですが、同地を訪れた皆さんの中には、はっきりそれと確認できなかった方もお見えになるのではないでしょうか。
と言いますのも、関ケ原古戦場ファンにはお馴染(なじ)みの明治39年碑ですが、幸長の陣跡の場合、これが垂井一里塚のてっぺんに建っており、しかも一里塚そのものは柵で囲まれていて登ることができないため、そこに陣跡碑があることに気付かない場合があるからです。
関ケ原合戦の本戦における幸長の使命は、山内一豊や池田輝政(いけだてるまさ)と同様、毛利(もうり)勢への備えにあったと言えましょう。結果的に毛利勢は戦いに加わらないまま退却しました。しかし、幸長の戦功は高く評価され、戦後、大幅に増封されています。
 


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⑤ 池田輝政(いけだてるまさ)陣跡

 池田輝政は岐阜城攻城(こうじょう)戦で、福島正則と熾烈(しれつ)な先陣(せんじん)争いをした猛将です。岐阜城主だったことのある輝政は、岐阜城の構造や当地の地理にも詳しく、正則との約束を違(たが)えるような形で岐阜城から出陣してきた織田秀信(ひでのぶ)軍と戦闘を開始しました。その後、遅れて到着した正則らと、またもや先陣を争って岐阜城に攻め上ります。実際は当地をよく知る池田勢が一番乗りを果たしたようですが、井伊直政(いいなおまさ)と本多忠勝の調停により、福島勢と池田勢が同時に岐阜城を落城させたことにしました。
 これらのゴタゴタは一見、全軍の結束を危うくする様相にも見えますが、大きく捉(とら)えれば、戦闘意欲(いわゆるアドレナリン)が沸々(ふつふつ)と沸き上がっている状態とも言え、大将が上手にさばけば、軍隊としては何よりの強みになるはずです。事実、残念ながら、西軍の方にはあまりこうした事態は生じていなかったように思えます。
 さて、関ケ原本戦では、輝政は南宮山の毛利勢への備えとして、前線から遙(はる)か後方に陣を構えました。もちろん輝政は不満で、再三、義父でもある家康に前線への参加を求めたようですが、説得されてしぶしぶ承知したようです。
 戦後は、播磨(はりま)五二万石に大きく増封されますが、これは、家康が、娘婿(むすめむこ)である輝政に、西国に打ち込む徳川方の楔(くさび)としての役割を期待した結果と考えられます。



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⑥ 脇坂安治(わきさかやすはる)陣跡

 脇坂安治といえば、小早川秀秋(こばやかわひであき)に続いて西軍を裏切った四将(脇坂安治・朽木元綱くつきもとつな・小川祐忠おがわすけただ・赤座直保あかざなおやす)の筆頭格として知られています。近江国浅井(あざい)郡出身の安治は、関ケ原合戦当時、淡路洲本(すもと)三万石の領主でした。大名としてはわずかな所領しか持たない安治にとって、西軍諸将が集う西国で表立って東軍支持を表明することなどとてもできない相談でした。
 しかし、賤ケ岳(しずがたけ)七本槍の一角を担(にな)った武闘派でもある安治は、三成とは気が合わず、もし西軍が勝利したとしても、必ずしも自分にとって好ましい状況になるとは思えませんでした。一方、東軍の家康からはじきじきに、「できれば味方についてほしいが、事情もあることゆえそうならなくとも恨(うら)みには思わない…」などと書かれた懇切(こんせつ)な書状が届けられ、それに心動かされた安治は、東軍に内応することを決めたのです。
 関ケ原合戦当日、西軍を裏切った上記四将のうち、領国を安堵されたのは安治のみでした(安治は後、更に加増転封されています)。
 安治のような小大名が、西軍で溢(あふ)れかえる西国で生き残ろうとしたら、ああする以外なかっただろうな、というのが私の率直な感想です。もちろん、例えば、少ない兵とともに田辺城に籠城(ろうじょう)して東軍支持の旗幟(きし)を鮮明にした細川幽斎(ほそかわゆうさい)は立派ですが、幽斎の場合、細川氏という名門であり、古今伝授(こきんでんじゅ)を受けた第一級の歌人として、天皇をはじめとする貴族や敵方の武将たちからも尊敬を受けていた、特別な人物です。幽斎もそうした自分のステイタスは十分に考慮に入れての行動だったに違いありません。
 そうした有形無形のアドバンテージを持たない安治のような小大名の場合、領国を背中にでも背負って東軍に駆け込めないなら、面従腹背(めんじゅうふくはい)、これしかないでしょうね。
 安治には、大谷吉継(おおたによしつぐ)の魅力はよく分からなかったのではないでしょうか。少なくとも、吉継の盟友(めいゆう)平塚為広(ひらつかためひろ)や戸田重政(とだしげまさ)のようには理解できなかったと思います。これは安治のことを批判しているのではなくて、むしろ、当時の中小戦国武将として、現実的に誠実に生きようとしたら、安治のようになるだろうな、と思うのです。むしろ、吉継と彼の周囲の武将たちが特殊だったと思います。
 一方で、家康の心遣いは安治にもよく理解できたでしょう。そういう意味で、安治はむしろ当時の一般的武将としては、ごくまっとうな常識人だったのではないでしょうか。少なくとも、安治なりに筋を通したからこそ、家康も他の裏切り三将とは区別して、安治の功に報いたのでしょう。



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⑦ 吉川広家(きっかわひろいえ)陣跡

 吉川広家は毛利家の西軍への参加を阻止(そし)しようとしましたが果たせませんでした。しかし、その後も東軍への内応(ないおう)工作を進め、関ケ原本戦でも南宮山の麓に布陣したまま動かず、毛利軍の参戦を阻(はば)んだのです。
 毛利輝元が広家の説明と異なって、かなり積極的に西軍に与(くみ)していた事実が明らかになったこともあり、戦後の審判には厳しいものがありました。慌(あわ)てた広家は、自分に与えられた所領を譲ってでも主家(しゅけ)の毛利家が存続できるよう奔走(ほんそう)し、大幅に減封したものの改易(かいえき)は免(まぬが)れました。
 しかし、広家の努力は毛利家の内部では認められませんでした。毛利家と吉川家の間のしこりや不満は江戸時代を通じてずっと残ったのでした。



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⑧ 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)陣跡

 臨済(りんざい)宗の僧ですが、毛利家と豊臣政権を結ぶ役割を担い、秀吉にも大変信頼されていました。しかし、秀吉の死後、吉川広家との対立が激しさを増し、関ケ原合戦前には毛利家は全くもって一枚岩とは言えない状態でした。
 恵瓊は三成との謀議(ぼうぎ)により、毛利輝元(もうりてるもと)を西軍の総大将に担ぎ上げることに成功しますが、広家側も積極的に対抗策を講じ、結局、輝元は大坂城から動かず、南宮山に布陣した輝元の名代秀元(ひでもと)も、ほとんど活躍の場を得ないまま戦線を離脱(りだつ)しました。恵瓊自身も関ケ原から逃れ、京都に隠れますが、捕えられ、石田三成、小西行長(こにしゆきなが)とともに京都六条河原(きょうとろくじょうがわら)で斬首(ざんしゅ)されました。
 


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⑨ 長束正家(なつかまさいえ)陣跡

 五奉行のひとりである正家は、近江国の水口(みなくち)城主でした。家康につくような動きも見せましたが、家康は正家を信用せず、結局、西軍に与することになりました(正家には家康を暗殺する計画があったともいわれます。もしそうなら、家康につくよう見せかけただけかもしれません)。
 関ケ原本戦では、南宮山の東南麓に陣を敷きましたが、吉川広家が兵を動かさなかったことから、正家も参戦の機会を逸し、戦わないまま退却しました。
 退却中、島津義弘の一行と出会った広家は、付近の道をよく知る家臣に道案内をするよう指示して送り、敵中突破の島津勢を助けたと言われています。
 ようやくにして水口城に帰った正家でしたが、東軍方に説得されて開城します。しかし、家康は正家を許すことなく切腹を命じました。



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⑩ 長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)陣跡

土佐二十二万石を領する大名ですが、家督相続(かとくそうぞく)をめぐって内紛(ないふん)が続いていました。盛親としては家康につくことを決め、家康に書状を送りますが、使者が石田方に捕らえられてしまい、西軍につくことになりました。
関ケ原本戦では南宮山(なんぐうさん)の南の栗原(くりはら)山麓に布陣しますが、ついに参戦の機会を得ぬまま撤退します。
戦後は領地を没収され、京都に蟄居(ちっきょ)していましたが、大坂夏の陣で豊臣方について敗れ、六条河原で斬首されました。

                              
                                  

 今回は、これまでご紹介しきれなかった関ケ原古戦場関連史跡を、陣跡を中心に取り上げてみました。
 なかでも脇坂安治については、当時の中小戦国武将のスタンダードをみるような思いを抱いたものです。

 さて、このブログもあと数日で終了します。ここまで読んでくださった皆様に改めて御礼申し上げます。
 ありがとうございました。         

子供甲冑 ~草摺(くさずり)と袖(そで)~

おはようございます。
笹尾山甲冑工房です。

今回は侍大将の草摺り(くさずり)と袖(そで)の作り方についてご紹介。

説明


草摺り(くさずり)

写真のように草摺り(くさずり)は 大腿部を守るために鎧(よろい)の胴の付属具になります。
威し糸(おどしいと)と呼ばれる平打ち紐で繋げていくのですが、
その威し糸(おどしいと)で繋ぐ事を威す(おどす)と言います。

威すとはそもそも「緒通す(おどおす)」から来たもののようです。
小さな板を連結して前後合わせて6枚作ります。

まずは、厚紙に布地を貼り、穴を開けます。
威し糸は必要な長さに切り、先を斜めにカットしテープで巻いておきます(紐には裏表があります)

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上から順に威していきます。

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袖に威し糸が通りました。

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こちらは草摺です。
一番下の部分は菱綴(ひしとじ)といって、威し糸を交差させて装飾しています。

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裏から見た草摺です。このあと端処理をします。

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バリエーションを変えて作成しました。

はじめは紐を強く引きすぎたり、捻れてしまったり悪戦苦闘しておりましたが、
慣れてくると、紐のふくらみも出来、威し作業が楽しくなります。





関ケ原陣中食 「関ケ原戦国汁」「家康の鷹狩むすび&チェスト!めし」

おはようございます。
阿茶にございます。

「関ケ原合戦交流広場」に多数ご来場頂き、ありがとうございました。
おかげさまで陣中食も、予定数の200食を大幅に超え、
約270食のふるまいをさせて頂く事ができました。
改めて、お礼申し上げます。

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お野菜武将(s)

当日は、関ケ原陣中食としてふるまいをさせていただいた、
「関ケ原戦国汁」、「家康の鷹狩むすび」&「チェスト!めし」をご紹介いたします。

「関ケ原戦国汁」
戦国汁


・ズイキ(芋茎=いもがら)
・干し大根
・ごぼう
・ネギ
・豚肉
・豆味噌


*ズイキ
食物繊維やカルシウムが豊富な食材で、戦国時代の代表的な保存食。
味噌汁で煮しめ干した芋茎縄(いもがらなわ)は腰に巻いておき、千切ってかじれば塩分の補給になり、切って煮込めば汁の実になるという優れもの。戦国版インスタント味噌汁の出来上がりです。
*干し大根 
煮付けて良し、汁の実に良し。干し大根(切干大根)は干し野菜の代表格。野菜は干すことで旨み成分が凝縮され美味しくなるほか、栄養価が高くなります。戦国時代に陣中食の食材として重宝された「干し野菜」が今、静かなブームになっているとか・・・。
*豆味噌 
三河・尾張の名産である豆味噌は、年月を掛けて熟成させた暑さに強く保存性の高い、戦国時代の重要な兵糧のひとつです。信長の最強勝負メシは「湯漬け」と「焼き味噌」。家康は「五菜三根」の味噌汁を毎日食べていたようで、豊富な野菜と味噌が長寿の秘訣のようです。

お野菜武将(s)


「家康の鷹狩むすび」&「チェスト!めし」

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武田信玄の信州味噌、伊達政宗の仙台味噌、そして徳川家康の岡崎名物の「八丁味噌」。良い「手前みそ」を持つ者が力を発揮できたことが伺えます。
家康は常に健康を第一に考え、食事は麦飯と栄養価の高い八丁味噌を中心とした質素なものが主としています。江戸に本拠を構えてからも、生国の三河から八丁味噌を取り寄せ食していたようです。
家康が好んで鷹狩りの際に携えた「鷹狩むすび」を再現してみました。麦飯に味噌を塗りつけ香ばしく焼いた「焼きむすび」です。

・麦飯 米3:麦1
・豆味噌
・鬼胡桃
・すりゴマ


チェスト!めし
・薩摩の麦味噌 ・酒
鹿児島産の淡色で甘めの麦味噌を煮切った酒でのばし、麦飯に塗った焼きむすびです。関ケ原陣中食の中では唯一の麦味噌。島津軍のごとく敵中突破なるか? 「チェストォ~!」と気合を入れたら、麦の甘味を味わってみてください。

参考文献:
『戦国武将の食生活 勝ち残るための秘伝』(永山久夫著、河出書房新社発行)
『戦国の食術 -勝つための食の極意』(永山久夫著、学研パブリッシング発行)



お野菜武将(s)

関ケ原陣中食は2月25日 メ~テレの朝の番組「ドデスカ!」の
地元応援団宣言!信長が行くにてご紹介いただきました。

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早朝よりたくさんの方にお集まり頂きありがとうございました。


                              -阿茶ー







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